Interview #07 Hiromi Yamamura
Photographs by Masayuki Furukawa
Make-up by Tokuko Oda
Hair Styling by Satomi Kawahara
Model by Hiromi Yamamura(FRIDAY)
Text by Kazuki Hoshino
ポートレイト連載#00に登場したHiromi Yamamuraへのインタビューを掲載。ストイックに表現への姿勢を突き詰めるYamamuraは、2013年、ロンドンのモデル事務所との契約を結ぶこととなった。現地に渡る直前の彼女に話をきいた。
河原 上京したのはいつ頃ですか?
山村 奈良の大学を卒業してから東京に来ました。当時は農学部のバイオサイエンス学科で研究をしながら、大阪のモデル事務所に所属していました。
河原 モデルになったきっかけは?
山村 元々は高校時代にバスケットボールをやっていたんですが、そこで大きな怪我をしたのがきっかけですかね。
河原 バスケは本気でやっていた?
山村 はい。県の選抜選手を2年程させていただきました。高校3年生になる前の春休みに、県選抜の全国大会があったんですけど、スポーツ選手にとって大事な膝の前十字靭帯を切ってしまったんです。そんな時にケガをしてしまって。
河原 キツいですね。
山村 突然に目標が目の前からなくなってしまうことがあるんですね。若干17歳でしたから。
河原 そのあと手術はしたんですか?
山村 手術しても完治するまでに1年はかかると言われたので、手術は受験のあとに回して、理系の大学を狙うことにしたんです。実は高校二年生の時に科学のテストで100点満点中8点を取ったことがあって(笑)。仲の良かった子と廊下で見せ合っていたら、フワッと答案用紙が飛んで、8点が横になって「∞(無限大)」に見えた。「そうか、化学というものは勉強すれば無限大になるかも知れない!」と、目覚めました。それから1年間化学だけを猛勉強した。
河原 ニュートン的な発見(笑)。それで無事に大学に入られたんですね。
山村 はい。でも楽しい大学ライフを送るために、まず足の手術をしないといけないということで、夏休みに手術しました。やはり完治までには約1年かかりましたね。しばらくボルトが入っていたので、歩き方がぎこちなかったんでしょう。母が知り合いのウォーキング教室をすすめてくれたんです。でも行ってみたら、モデルの人たちが歩いてポーズを決めていて、それを目の当たりにして、「む、無理だ」と言ってしまいましたね。進学したばかりで、研究者になろうと決めていた時でしたし。
河原 ウォーキングスクールも奈良の大学の近くだった。
山村 スクールは大阪でした。少し遠かったんですが、先生が「1回でいいから来ないか」と根気強く電話をかけてくださいました。どうやら先生は、リハビリではなく、モデルの練習として誘ってくださっていたみたいなんです。先生の気持ちに押されて、通うようになりました。
河原 通ってみてどうでした?
山村 毎回苦痛でしようがなかったです。人前に出るとか発表するとか性格的に向いてなかったみたいです。
河原 でも今思えば、それがモデルのキャリアのはじまりになったわけですよね。先生も、最初からいけると思ってらっしゃったんでしょう。
山村 ウォーキングの先生には本当に感謝しています。引っ張ってもらわなかったら、今の自分はなかったです。それと同時に20歳の誕生日に、10歳の私が学級会で書いたお手紙が届いたんですよ。「20歳の紘未さんは、今の私の夢であるモデルさんになっていますか?」って。当時は引っ込み思案だったんですけど、誰にも見せない自分へのお手紙だけに、そう書いてあったんです。
河原 周りには言ってなかったんですか?
山村 考古学者になりたいとか、天文学者になりたいとか、結婚したい、ということしか言ってませんでしたね。その手紙を読んで、10歳の私の夢を潰しちゃいけないんじゃないかと思いました。それが後押しになりましたね。やってみようと。
河原 ちょうどいろんなタイミングが重なったんですね。ところで、大学では結構勉強されたんですか?
山村 分子生物学、植物生理学、動物発生学、科学......。最終的に卒業論文では「セルロースウィスカー均一分散法」の開発の研究を発表しました。このまま大学院に進んで「狙うはノーベル化学賞だー!」なんて当時は本気で思っていました。
河原 でもモデルの道を選ぶことになった。
山村 きっかけは大阪で開催されたコンテストでした。優勝がパリコレの出場権だったんです。すすめられて何も考えずに受けてみたら、なんと優勝してしまって、卒業論文発表の1週間前にパリに飛ぶことになったんです。
河原 転がる時は一気に来ますからね。「キタ!」という感じだったでしょう。
山村 不安の方が大きかったですね。ずっと奈良で育って、海外のコレクションのことはなにも知らなかったですし、オートクチュールのコレクションの1つに出させてもらったんですが、舞台裏でもどう振る舞っていいかわからなくて。海外のモデルの世界は怖いという先入観もあって、1人で廊下にいたんです。ほかの皆は部屋の中で話していたんですが、そのショーのフィナーレを飾った黒人のモデルの方が、私に気づいて手招きしくれたんです。
河原 山村さん1人が日本人だった?
山村 そのショーではそうでした。手招きする方へ恐る恐る寄っていくと、日本人が珍しかったみたいで皆とても仲良くしてくれました。「こっちのエージェントには入ってないの?」と聞かれたので、どうすればいいか尋ねると「そんなの簡単よ、コンコンってドアを叩いて、ハローって言えばいいのよ。必ずまた会いましょうね」と、抱き締めてくれました。
河原 でもすぐ帰って卒業論文を発表しなきゃいけない。
山村 そうなんです。でも、帰国して普段の生活に戻っても、それがずーっと心に残っていたんですよね。進路を決めるときに、パリまで行かせてもらったんだから、ちゃんと突き詰めてみようと、モデルの道に進むことに決めました。ということで、東京の事務所に応募しました。
河原 東京に来られてどうでした?
山村 最初は、関西弁と標準語の言葉の壁を感じましたが、仕事の内容やスケールには刺激を受ける毎日でした。東京には夢がありましたね。
河原 「Direction」で撮影させてもらったのは1年前くらいでした。あの時はまだ子鹿みたいに震えてましたね(笑)。
山村 人生ほとんど震えて生きてきましたから(笑)。
河原 その撮影の後に出演されたファッションショーやISETANのモダンなお仕事を見させてもらって、頑張ってらっしゃるなと思っていました。
山村 1年目は髪の色も茶色で、コンサバティブな仕事をメインに、2年目は広告と、一年ごとに自分のビジョンを考えて、3年目はどうしようと思った時に、パリで会ったモデルさんの言葉を思い出して、海外に行ってみようと思ったんです。本当にアポなしで突撃しました。
河原 やはりパリに行かれたんですか?
山村 そうですね。現地でいろいろモデル事務所を回りましたけど、あっけなく全部落とされました。でも帰国後に意識を変えて行動すると、環境が変わってきたんです。いろいろなクリエイティブな方と知り合い、いろんな写真展に作品を出していただいたり、オランダの雑誌に載せていただいたり。人のつながりがどんどん増えていきました。
河原 海外へのご縁も出てきたんですね。
山村 実はパリには3回突撃しているのですが、2回目の後ですかね。帰って来てすぐ『MATOHU』のデザイナーさんにお会いすることができて、そのご縁で東京コレクションに出させていただきました。出会いといえば、海外とは別の話なのですが、2013年の最初に舞台のオーディションを受けたんです。お芝居なんてやったこともないし、どうしていいかわからなかったんですけど、とりあえず迷惑だけはかけないように台詞を覚えて、150%くらいの力で思いっきりやりました。案の定、監督やその周りの方の目が点になって、でも二度と会うこともないだろうと思っていたら、監督がアクターズスクールに来るように言ってくださいました。
河原 役者ということですよね?
山村 そうです。パリではうまく行かなかったけど、自分の根性試しにもなったし、その経験も活かせてここにたどり着けたので、監督についてもう1度根性を出して食らいついていこうと。モデルのことは考えずに芝居の勉強に半年間没頭していました。でも、突然その監督さんがお亡くなりになってしまったて。本当に生徒1人1人を大事に、そしてやる気にさせてくださる方でした。ショックでしばらく放心状態でした。でも、監督の教えを無駄にしてはならないと、もう1度海外に行こうと思ったんです。
河原 で、今度はロンドンに行かれた。
山村 監督が亡くなられてから2週間後にすぐ飛びました。ロンドンには1週間滞在したんですが、ショックもあってなかなか気分が上がらなくて、ウロウロした結果、意を決してオープンコール(モデルが事務所を訪ねて良い時間)、ギリギリで事務所に訪問したんですが、あせって走って飛び込んだ先が事務所の隣にあるスーパーマーケットでした。ぜいぜい言いながら外に出たら、たまたまその一部始終を事務所の前でタバコを吸っていたヘッドブッカーが見ていて「うちの事務所を探してるんじゃないのか?」と。すぐに事務所に連れて行ってくれてブックを見てもらい、OKになったんです。
河原 すごい勢いだったんでしょうね!
山村 ヘッドブッカーの方に、勢いよく通り過ぎて、スーパーマーケットの中で事務所を探している姿がおかしかったと言われました(笑)。自分1人の力ではどうにもできなかったと思うので、本当に導いてくださったのだなと思います。
河原 でもロンドンの事務所が決まって本当に良かった。ロンドンではカルチャーやシーンのエッジも見れるでしょうし、いい環境ですよね。演技の勉強もされたからこそ、モデルへの幅も出てくるでしょうし。モデルをする上で貴重な体験でしたね。
山村 それを学んで、写真に対する考え方も変わりました。フォトグラファーさんと物理的な構図や美しさを含め、心や感情を共鳴する呼吸だったりとか。チームでつくる世界観に関しても、以前より敏感になりましたね。まだまだこれからですが、1ショットにもっと魂を込めないと、と思うようになりました。
河原 このインタビューが掲載されるときは、もうロンドンですね。これからの目標を教えてください。
山村 4大コレクションは制覇したいです。もっと大きいことを言うと、歴史に残る写真に携わりたいです。私はいずれ亡くなりますが、写真はずっと生きています。それがモデルとして最初で最後の目標ですね。2014年は、より仕事に魂を込める年にしていきたいです。
山村紘未 Hiromi Yamamura
奈良県出身のファッションモデル。雑誌や広告、ファッション・ショーなど、日本と海外を股にかけて活躍。2014年より、ロンドンに拠点を移し、活躍している。
FRIDAY(公式サイト)
公式ブログ「鹿日記」