Nikkei Brasileiros! vol.29
Vol.29 コンデ・コマ(柔道家)
日伯交流100周年企画
後援=在日ブラジル大使館
協 力=AMERICAN AIRLINE
Photoraphs & Text by Mizuaki Wakahara(D-CORD)
Directed by Ryusuke Shimodate
Edit by Tomoko Komori
Camera Assistant by Yayoi Yamashita
Coordinated by Tamiko Hosokawa (BUMBA) / Erico Marmiroli
2008年、地球の裏側ブラジルへの移民がはじまって100年の月日が流れた。今では150万人を超える日系人が暮らしている。南半球最大都市サンパウロへ「japon」に会いに旅にでた、日系ブラジル人ポートレイト集。
1000戦無敗の男がいた。400戦無敗を謳うヒクソン・グレイシーの肩書きすら霞んでしまいそうな異名をもつ。スペイン語で「コマ伯爵」。その当時、金欠でコマっていた男は我が身をそう名付けた。「大陸に渡って馬族か海賊になりたい」と語っていたその日本人は、「プロフェッソール コンデ・コマ」と呼ばれ、アマゾンの伝説となった。
「コマ伯爵」こと前田光世が柔道の総本山、講道館に入門したのは明治30年。明治34年(1901)には三段まで昇段し、講道館内でも頭角を顕わした。当時、講道館柔道は国内の古流柔術との試合で勝利し続け、その武道としての優位性を証明していた。日本を制したら、もちろん次は世界だ。
「柔道の普及活動」と銘打って、講道館は海を渡った。当時最も勢いのある若武者であった前田にも声がかかり、彼の戦いの舞台は世界へと移った。明治41年(1908年)に日本が日露戦争に勝利したことによる日本ブーム・柔道ブームが起こっており、アメリカ本土での入門者の集まりも悪くはなかった。しかし、練習で投げつけられることを苦にしてか、反復の多い単調な稽古を嫌ってか、長続きするものがなかなかいなかった。さらに、日本ブームに便乗した同胞の偽柔道家たちが米国各地でレスラーに勝負を挑まれて無残に負け姿を晒しているのも、前田らにとって悩みの種であった。これらの問題を解決しようと、新聞に広告を出し、積極的にレスラーなどの挑戦を受けて公開勝負を行うことにした。アメリカ人に本物の柔道を見てもらい、柔道の実戦における有効性を宣伝しようと考えたのだ。初めての公開勝負は、ブッチャーボーイというプロレスラーで、182cm113kgの巨漢だったが、一本目は巴投げ、裏投げといった投げ技からのピンフォールし、二本目は腕の関節を極め、完勝した。これから始まることになる、世界を股にかけた異種格闘行脚の記念すべき第一戦であった。
「柔道の普及活動」という志を失った訳ではなかったが、全てが思い通りに運ぶはずはなく、月日が流れるにつれ、前田の異種格闘技戦は滞在費を稼ぐための手段へとその目的が変わりかけていた。また、果てしなく勝ち続ければ勝ち続けるほど、前田に挑む者も少なくなっていった。戦わなければ食っていけない前田は遂に、自らに懸賞金を賭け対戦相手を募ることまでした。この破天荒で、言わば強引な前田の普及活動が日本に伝わり、講道館を破門されてしまう。だがこの時、前田には新たな浪漫が芽生えていたに違いない。自らが自らの手で「日本柔道最強を世界に示すこと」。
前田はヨーロッパへ渡る。イギリスでは柔道の名は既に知られており、教室を開くとアメリカとは違って熱心な入門者にも恵まれた。イギリスでも同じように各地で講演会と公開勝負を行うほか、当時盛んに行われ始めていたレスリング大会にも参加した。欧州での連戦の道中、スペインで新たなリングネームを授かり、以後、コンデ•コマ「コマ伯爵」として戦い続けた。
ヨーロッパを後にし、まずは中南米。キューバやメキシコで精力的に興行を行い熱狂的な人気を博す。グァテマラからパナマへと中米を南下した後、南米大陸に入り太平洋岸回りでペルー・ボリビア・チリ・アルゼンチン・ウルグアイを歴訪し、大正3年(1914年)にサントス港から上陸、初めてブラジルの土を踏む。翌年には北上して永住の地となるアマゾン河口の都市ベレンに到着する。アメリカでの活動時に排日機運を肌で感じていた前田は、中南米を転戦するうち、自然に日本人の第二の発展地を探すようになっていた。そしてアマゾンの大自然や、ベレンのヨーロッパ風の美しい街並み、現地の人々の鷹揚さなどに触れ、こここそがその地であると確信したのだった。ここから前田の人生の第二幕がはじまる。
前田が着いたころベレンはちょうど入植三百年祭の最中で、そのイベントの一つとしてアマゾン一の勇者を決めるという触れ込みでルッタ・リブレ(レスリング)の大会が行われていた。前田はこれに飛び入りで参加すると、優勝を収めてしまった。既に「コンデ・コマ」の中南米各地での活躍はこのアマゾンの地にも届いていたが、その強さと礼儀正しい立ち振る舞いを直接目にしたベレン市民は、尊敬の眼差しをもって前田を迎えた。警察や兵学校で柔道を教える傍ら、道場への入門者を募ると、地元の名士やその息子たちが続々入門してきた。スコットランド系の事業家ガスタオン・グレイシーも、後に生意気盛りの息子カーロスへの柔道の手ほどきを前田に頼むことになり、それがグレイシー柔術の起源であることはあまりにも有名だ。
40歳を越えた大正11年(1922年)、格闘家としての活動に区切りをつけて、本格的にアマゾンへの入植事業に関ることにする。大正13年(1924年)には腎臓の病を患って入院中、親切に看護にあたったイギリス人のデイジー・メイ・イリスと結婚し、その後セレスチという養女も迎えた。
その後前田自身も外務省の嘱託となり、アマゾン入植のための国策の南米拓殖会社が設立されるとその現地代行会社の監査役となった。さらに上塚司らによるアマゾニア産業が設立されると、その取締役となり、州政府との交渉や入植者達の世話に奔走した。しかしそんな前田の思いとは裏腹に、アマゾン流域での農地開墾を目指した日本人の入植の試みは難航した。
本格的にベレンに居を定めてからの20年近くをアマゾン入植事業に捧げた前田だったが、そうこうする内に持病の腎臓病が再発し、昭和16年(1941年)11月、遂にアマゾンの発展をその目にすることなく63年の生涯を閉じた。その葬儀では、ベレン市街から墓地までの道のりをベレン中の自動車が列を作って棺を見送った。結局富田とともに渡米して以来、前田が再び祖国日本の土を踏むことはなかった。ベレンで私設大使のような存在になってからは、日本の政府筋からも帰国の誘いがあったが、自らの信念であるアマゾン入植が道半ばであるからか、現地の家族を慮ってか、望郷の念に駆られつつも誘いを断り続けていたという。
生前、前田はこんな言葉を残している。
太く「勿論、植民は一両年にして栄華の実を結ぶものではないので、小生の死体が墓の下に朽ちて白骨となった頃、この辺に日本人前田―コンデ・コマの墓標はある筈だと、繁栄した同胞移民の手で苔の生えた小さな墓標が探し出される日があることを信ずる。その時小生の霊魂は不滅に残って自分の信念が貫徹されたことをどんなにか喜ぶ事であらう。」
日本人の持ち込んだ苗による胡椒の栽培がトメアスで成功し、アマゾンに空前のピメンタ(胡椒)景気をもたらすのは、前田が生涯を閉じてから5年あまり後のことだった。
ボクは柔術に対して、特別な感情がある。
今回この「Nikkei Brasileiros!」の連載で、直接取材していない人物について語っているのはそのためだ。Vol.28で出会ったチーム、ソウル・ファイターの仲間たちと柔術世界一を決めるムンジアルに乗り込んだのは2009年。世界中から、「世界一になりたい奴」らが集う場所。彼らはみな、好奇心と冒険心を持っている。ある道場で勝ち進めば、ある街へ。そこで勝ち進めばある都市へ。そこでも勝ち進めば全国へ。そして世界へ。「俺はどれだけ強いんだ?、俺より強い奴を呼んでこい!」見渡すかぎり、そんな心意気の柔術家に囲まれるほどロマンチックな瞬間はほかにない。祖国の「柔道」という看板を背負い続けながら、世界中を旅したコマ伯爵。破門されてもなお道着に袖を通し続けた孤高の柔道家に最大限の敬意を評しつつ、「Nikkei Brasileiros!」で紹介させていただいた。
なお、彼の歴史、及び掲載写真は、国立国会図書館の資料に準じている。
最後にあえて言いたいことがある。確かにコマ伯爵は最強だったに違いない。しかし、そんなコマ伯爵の心を鷲掴みしてしまったアマゾンの大地こそが、世界最強である。
コマ伯爵の墓はベレンに建てられ、UFCファイターのリョート・マチダの父、町田嘉三さんによって管理されている。
また彼の死から数年後、講道館より七段が贈呈されている。
町田嘉三 2013年3月 東京にて