Nikkei Brasileiros! vol.28
Vol.28 イズマエル・アオキ(総合格闘家)
日伯交流100周年企画
後援=在日ブラジル大使館
協 力=AMERICAN AIRLINE
Photoraphs & Text by Mizuaki Wakahara(D-CORD)
Directed by Ryusuke Shimodate
Edit by Tomoko Komori
Camera Assistant by Yayoi Yamashita
Coordinated by Tamiko Hosokawa (BUMBA) / Erico Marmiroli
2008年、地球の裏側ブラジルへの移民がはじまって100年の月日が流れた。今では150万人を超える日系人が暮らしている。南半球最大都市サンパウロへ「japon」に会いに旅にでた、日系ブラジル人ポートレイト集。
2008年10月20日
リオデジャネイロは僕にとって、間違いなく特別な場所であり、リオの友人たちやカリオカもまた同様に特別な存在だ。宝物のような体験、思い出にあふれ、それはいつまでも僕の中で輝き続けるだろうし、その想いはいつだってサウダーヂだ。
サンパウロでの取材を終え、帰国前に訪れたのがリオ。FIFAフットサルワールドカップファイナルの撮影と、コモリに紹介してもらった日系人イズマエルに会うことがミッションだった。
イズマエル・アオキ、日系3世でプロの格闘家。当時はリオの名門道場、ブラジリアン・トップチームなどで柔術の修行をしていた。兄ファビアーノも屈強なプロ格闘家であり、凄まじい戦績を残している。格闘家ブラザースの話の前に、まずはマンキチさんの話しをしなくてはならない。マンキチ・アオキ、イズマエルのお祖父ちゃんだ。
戦時中、マンキチさんが20歳前後の頃、日本での厳しい生活を変えるために、彼の兄と妹と共に3人で、仕事を求めてブラジルへ旅立つ。アオキ3兄弟は長い航海を経てサントス港に着いたが、そこには日本で聞いていたような希望は存在しなかった。「シゴト、ナイ、マテ。」と告げられ、食べるものもないまま倉庫のような場所に待機させられる。数日後やっと声を掛けられたが、定員は1名だった。妹を1人にするよりは自分が独りになると言って、兄がまず去っていった。さらに数日後、マンキチさんと妹に2人枠でベレンの農場の誘いが舞い込んだ。食べ物もない。行くしかない。2人はベレンへ向かった。ようやく仕事ができる。わずかだが食べ物もある環境にたどり着いた矢先、妹はマラリアにかかり、そのまま帰らぬ人となってしまった。
僕がこの連載「Nikkei Brasileiros!」を通して最も学んだこと、と同時に記録として、言葉として永遠に残したい精神はここにある。ゼロからの出発。家族のために家族を残し、数日で消えてしまうであろう小銭をポケットに詰め込み、我が身ひとつで異郷の地で生き抜いていく。いつか家族のもとへ貯めたお金を届けられるように、生命を賭けた挑戦。その不屈の精神をマンキチさんも持っていた。ベレンの胡椒畑で働く過酷な日々を乗り越え、ある程度のお金を蓄た。数年後、ベレンから車で3、40分のサンタイザベルという現在でも日系人の多い街に、自らの畑を切り開く。貯蓄だけでは足りないので、銀行から大きな借金もした。それでも、地道な労働は実を結び、徐々に借金の返済をしながらも自分の家を建てるところまで生活水準をあげることができた。それはいわゆる「成功」と呼べるものだったに違いない。なぜブラジルに家を買ったかといえば、ブラジル人女性と結婚することになったからだ。それがイズマエルの祖母、ハイムンダおばあちゃんである。ハイムンダさんは学校の先生をしていて、仕事の合間を縫ってポルトガル語を習いに来ていたマンキチさんと出会う。先生と生徒の恋愛なんて、当時は今以上に禁断の愛だっただろうか? それともブラジルの恋愛事情に「禁断」なんて言葉は存在しなかっただろうか?
アオキ夫妻はたくさんの子供にも恵まれ、平穏な暮らしを手に入れることができ、故郷への想いを胸に秘めながらもブラジルでの生活が、日本のそれよりも長くなっていった。思い描いていた帰国はならなかったものの、マンキチさんの苦労は報われたかに思われた。
ところが、とんでもない災難が待ち受けていた。規模を拡大し、安定した収入を家族にもたらしていた胡椒畑が、期せずしてして降り続けた雨によって全滅してしまったのだ。銀行に残っていた借金を返済するために、畑を全て売らなければならなかった。マンキチさんは再び、災難と向き合うこととなる。さすがに打ちひしがれていた。もう一度、やり直すことができるだろうか?
そこで転機になったのが、「デカセギ」だった。1980年代、日本は言わずと知れたバブル期。日系ブラジル人のなかでは、母国へのデカセギが大きなブームになっていた。妻はブラジル人だし、子供たちも日本のことは何も知らない。おまけにイズマエルを含めた孫たちのこともある。当時デカセギを考えた日系人家族がみな直面したであろう悩みを越え、マンキチさんは子供たちとデカセギを決意する。その頃のブラジル経済が破綻していたことも大いに背中を押した要因だろう。
イズマエルを含む孫3人をサンタ・イザベルに残るハイムンダさんに託し、日系人アオキ一家はブラジルを後にする。
イズマエルは言う。「あの日のことは一生忘れないよ!朝起きたらお母さんが消えていたんだ。8歳くらいだった僕は「お母さんどこ?」って一日中泣いたさ! 僕たちはまだ小さかったから、絶対反対すると思ってデカセギのことは秘密にされていたんだよ」。
ここからのデカセギ期はイズマエルを中心に話しをすすめよう。それからおよそ4年後、イズマエルは初めて日本に呼び寄せられる。12歳のことだった。デカセギはアオキ一家に少なくない財産をもたらした。ブラジル時代の数倍は金を稼ぐことができたからである。当然ブラジルに帰るという選択肢はなくなり、残してきた孫たちが呼び寄せられたのだ。イズマエルの日本の印象はこうだ。「いやー、楽しかった。毎日パーティって感じだった。欲しいものが買えたり、食べたいものが食べれたりすることが信じられなかったよ! 1月でひとり60万円くらい収入があったからね」。
しばらく日本に滞在したものの、言葉のわからない日本の学校にはなじめず、登校しない日々が続いた。年齢的に以前よりも家族の諸事情を理解し、親が日本で仕事をする意味を身をもって体感したイズマエルは、学業に戻るためにブラジルへ帰る。
ところが、やんちゃ盛りのイズマエルにハイムンダおばあちゃんが音をあげた。「あんたの面倒はもう無理!お母さんのところに行って!」。
15歳のとき、イズマエルは本格的に日本で暮らすようになる。「来てすぐに日本人の彼女ができたんだ。そしたら瞬く間に日本語が喋れるようになったよ。前に来た時は全然ダメだったのに」。
極真空手に入門したのも日本に来てからだ。すでにブラジルでも松濤館に通っていたようだが、極真での初日の体験は特別だったようだ。
「息が吸えない! びっくりしたよ。きつくて息が吸えないんだ。覚えてるよ。その日の帰り、リュックの中に入ってた煙草を捨てたんだ。それから一度も吸ってない。練習もきつかったけど、強くなりたいから我慢したよ。極真に入って、3ヶ月くらいたってから、夜寝る前に、兄とかいとこの前で布団を蹴って見せたんだ。空手の蹴りはこんな感じだって。そしたらみんな感動して、翌日からボクと同じ極真に入門したよ!」。
そんなほのぼのするきっかけから、数年後、アオキブラザースはプロの格闘技の世界を本格的に目指しはじめる。兄ファビアーノはキックボクシングに傾倒し、打撃中心のフィールドで活躍を始める。一方、弟イズマエルは当時プライドで一世を風靡していてノゲイラに憧れ、寝技を極めようと志す。ノゲイラの所属するブラジリアン・トップチームに所属するために、再度ブラジルへ帰国した。撮影当時も複数のチーム練習を掛け持ちしていて、その中からリオで最も現代的な柔術を展開するソウルファイターズというチームの練習に連れて行ってもらった。黒帯の選手が多い。
特に当時のブラジルチャンピオンであるフォーミガの寝技には僕も感動した。強いからではなく、あまりにも美しかったからだ。このチームのメンバーとは特に仲良くなり、翌年はロサンゼルスでの世界選手権ムンジアルにも応援に行ったし、その後、リオでのブラジル全国選手権にも応援に行った。「イズマエルの友達はオレたちの友達!」っていうリオの法則で、みんな僕もファミリーだと思ってくれている。本当に最高の仲間だ。
さて、話を戻そう。デカセギ文化の環境まで伝えるにはまだまだ素材が足りないが、アオキ一家の歴史をかいつまんで話をしても、日系ブラジル移民の歴史の縮図であるかのように思える。
「おじいちゃんはね、いつも夕方になるとラジカセをベランダに持っていって、演歌のカセットを聞いていたんだ。ボクにはその音楽が日本の演歌だって言われてもよくわからなかったけど、とにかくブラジルにはない雰囲気のものだなってことは感じていた。そして何より、それを聴いているときのおじいちゃんの目が遠くを見ていたことが忘れられないよ。今思えば、きっと故郷のことを考えていたんだろうね」。