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Nikkei Brasileiros! vol.22
アンドレ・アルマダ(ゲイクラブ・オーナー)
日伯交流100周年企画
後援=在日ブラジル大使館
協
力=AMERICAN AIRLINE
Photoraphs &
Text by Mizuaki Wakahara(D-CORD)
Directed by Ryusuke Shimodate
Edit by Tomoko Komori
Camera Assistant by Yayoi Yamashita
Coordinated
by Tamiko Hosokawa (BUMBA) / Erico Marmiroli
2008 年、地球の裏側ブラジルへの移民がはじまって100年の月日が流れた。今では150万人を超える日系人が暮らしている。 南半球最大都市サンパウロへ「japon」に会いに旅にでた、日系ブラジル人ポートレイト集。
2008年10月14日
今日は、南半球No.1と言われるサンパウロのナイト・シーンを牽引する人物であり、最も有名なゲイクラブのオーナーであるアンドレに会う。僕らは2日前にアンドレの所有するクラブにも遊びに行ってきた。広大な敷地内に大きなプールがあり、広々としたフロアーが3カ所。バー・ラウンジもやたらと広く、日本ならメイン・フロアとしても使えそうなほどだ。人もよく入っていた。どちらかと言えば、一般大衆向けで、その雰囲気はアメリカナイズされているような、派手でラグジュアリーな趣向。僕個人としてはまったく興味が無い方向性だが、箱として景気がいい感じは気持ちがいい。誰もが間違いなく楽しめるような遊び場だった。
アベニーダ・パウリスタから一本入ったところにそびえる大きなマンションがアンドレの住処だ。東京で言うと表参道ヒルズのような物件のイメージだ。
自宅を訪れると、本人とマネージャーが迎えてくれた。アンドレはメディアへの露出もかなり多く、数々の雑誌の表紙を飾るような男ではあるが、その素顔は以外に素朴で謙虚な印象だった。挨拶を済ませると、「じゃあ撮影しようか!」と言い出したのはアンドレの方だった。リビングにあるオブジェの中から、自分で適当に目星をつけ、撮影小道具になりそうなものを選んだり、絵作りのアングル的に良さげな背景を背に座ったり、自らベランダに出てポーズをとったりと、さすがに撮影慣れしている。非常に協力的なことは有難いが、写真家心理としては撮らされている感が満載で必ずしもハッピーではない。どこかアンドレ本人も予期しない場所で撮り、彼にとっても新鮮な気持ちになってもらいたいと思いトイレの便座に座ってもらうようリクエストした。アンドレはやや照れを見せたものの、白いパンティー姿になり僕の期待に応えてくれた。ならばと更なる要求をする。結局全裸になって、ベッドへ横たわってもらうことに。サンパウロの夜遊び帝王のヌードを撮影できた僕は「いいものいただきました!」とご満悦だった。そしてリビングへ戻り、コーヒーをいただきながら、ゆっくりと彼の話を聞きはじめた。
アンドレの母方の祖父母が日本からの移民で、山口から来たそうだ。そのとき祖父は8歳で祖母は16歳だった。アンドレは日系3世。「祖父母は小さな田舎街にわずかな土地を買い、農業を営んでいたが、ある日祖父が自殺しました。そのため祖母はひとりでは農場を維持できないため畑を売り、ボクの母である娘とともに都市部へ移り、小さな家を買って暮らし始めました。35年前、母は私を身籠りましたが、残念ながら父親はいませんでした。そのとき極めて保守的だった祖母は、シングル・マザーである母のことも、そのおなかにいるボクのことも受け入れることを拒んだため、母は祖母の家を出たんです!」。こうしてアンドレは母親によって女手一つで育てられる。「ところがボクが16歳のとき、祖母は体を壊し、介護を求めて一度追い出した母を再び家へ呼び戻しました。母はできることを精一杯やりましたが、そのアイロニックな状況にボクは傷つきました。母の介護の甲斐もなく、間もなく祖母は他界しました」。
アンドレは高校を卒業後、サンパウロへ上京してホテル・ビジネスの業界へ飛び込んだ。ヒルトン系列のホテルで7年間働き、社会人としての基盤を作った。やがて自分のキャリアを一度リセットして、新しい挑戦を志したアンドレは、ベネズエラへの遊学を経てサンパウロへ戻り、PRを学び始める。その頃から徐々に芽生えたファッションへの興味から、当時盛り上がりを見せていたサンパウロ・ファッション・ウィークでナショナルPRの仕事を射止めた。彼の人生にとって全く新しい仕事は、今までにないタイプの幅広い人脈をもたらし、そんな友人たちとの交流は日系人家系の主流である堅実で保守的なアンドレの考え方に大きな変化を植え付けた。「PRの仕事を始めるまでは、ボク自身がコンサバな考え方をしていることにすらまったく気づかなかったけど、多様で自由な発想が当たり前のようなファッションの業界に身を置いてみて、いかに自分が祖父母や母の影響が強く、つまり日本人的な考え方をしていたことを自覚できたんだ」。
PRを約2年間続けた後、アンドレは自身の遊び場であったゲイ・ナイト・クラブのプロモーターの職に就く。それまで秘められていた彼の潜在的なビジネス・センスが覚醒し、その才能を発揮し始めたのだ。以後、次々にパーティーをプロデュースし、確実に結果を残した。アンドレの名前はゲイクラブ業界に浸透し、3年半後にはいよいよ自身のレーベル名を冠したパーティーが始動した。「気がついたらひと月に6本のレギュラー・パーティーを抱えていて、それなら自分用の箱を持ってしまったほうがいろいろと都合がいいだろうと思い、自分のナイト・クラブをつくったんだ。そのクラブは今年で4年目で、リオにも同様の箱をオープンさせた。確かに成功を掴んではいるけど、今だってまた別の新しいビジネスのあり方を模索している。好奇心や野心はまだまだ溢れ出していて、決してクラブ・シーンでの成功だけに満足して終わりじゃないんだ!」。
これまでのサクセス・ストーリーの秘訣は何なのだろうか?「周囲の友人たちは冗談まじりに言うよね『アンドレはニッケイだからビジネスに長けてるんだ!』って。それはつまりブラジル社会では多くのニッケイが成功してきた実績から、『ニッケイはビジネスで成功する』っていうステレオタイプがあるからなんだけど。その根本はただのハードワークだよ。ただそれだけ。ボクは本当に本当によく働く。そうでしょ?」と隣に座るマネージャーに相槌を求める。すると見た目イタリア系ブラジル人のマネージャーが「最近のニッケイはとてもトレンディーな人が増えたよね。世代なのかもしれないけど。ひと昔前までは、ゲイクラブの業界にニッケイはほとんどいなかったし、自分の知り合いにいるニッケイ人は大抵シャイでコンサバだったからね。今とは全然違ったよ!」と独自の感想を述べた。
アンドレは彼自身が日本語を話せないことを非常に後悔しているようだった。「だって、言葉以外で明らかにボクのジャパニーズ・バックグラウンドを表現できることって他にないじゃない? でも田舎の小さな街で暮らしていたころはそんなことまで考えが及ばなかったんだ。大人になってみて『ニッケイ』であるルーツはどんどん大切に思えてきた。いろんなルーツの人に出会えば出会うほど、誰しも自分がどこから来たどんな人間なのかってことが拠り所になるんだよ! 14歳のとき、ボクは母に頼んだんだ『父のことが知りたい』って。それを聞いて母は、父のママン経由で父に連絡をとってくれ、ボクが会いたがっていると伝えてもらった。そしてボクは父に会いに行き、父の子でもある証に『アルマダ』っていう父の姓をもらったんだ。それまではアンドレ・イワモトっていう、母だけの子供だった自分が、アンドレ・アルマダって名乗れるようになって、やっと普遍的な自分を手に入れることができたんだ」。
その後話は雑談になり、彼の好みの男性のタイプに移っていった。悪乗りしたアンドレのマネージャーがしきりに僕のアナルを舐めたいと言いだし、その場は大きな笑いに包まれたが、アンドレは微笑みつつも時計に視線を落とした。そろそろ約束していた時間だった。撮影のあとのインタビュー以降、彼がはしゃぐような姿はまったくなかった。話の途中で「ボクは本来、全然社交的なタイプではないんだよ。まして大のパーティー好きでもない。友達もそんなにたくさんいらないし、騒ぎたいなんて思うことはないんだよ!」と言っていたことを思い出した。彼のビジネスショータイムは終わったのだろう。
今思えば、ちょっと印象的な写真を撮りたいという僕のエゴに、真面目に一生懸命対応してくれたベッドシーン撮影であった。それがビジネスとしての一部だったとしても、彼の気遣いを嬉しく思う。と同時に、サンパウロの夜の帝王のヌードを撮ったぜ! と勇んだ自分が少しだけ恥ずかしくもあった。