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Nikkei Brasileiros! vol.21
レイチェル・ホシノ(プロダクト・デザイナー)
日伯交流100周年企画
後援=在日ブラジル大使館
協
力=AMERICAN AIRLINE
Photoraphs &
Text by Mizuaki Wakahara(D-CORD)
Directed by Ryusuke Shimodate
Edit by Tomoko Komori
Camera Assistant by Yayoi Yamashita
Coordinated
by Tamiko Hosokawa (BUMBA) / Erico Marmiroli
2008 年、地球の裏側ブラジルへの移民がはじまって100年の月日が流れた。今では150万人を超える日系人が暮らしている。 南半球最大都市サンパウロへ「japon」に会いに旅にでた、日系ブラジル人ポートレイト集。
2008年10月13日
ジュリアナの取材のあと、僕たちは再びヴィラ•マダレーナへやって来た。ナミ•ワカバヤシさん(vol.16参照)と会った街で、アーティストがアトリエを構える場所として人気がある高台の地域で、個性豊かな自由人で溢れるバイタリティーのあるエリアだ。今回はコーディネーターのエリコの紹介で、主に焼き物でこけし人形や招き猫を造っているというプロダクト・デザイナーのレイチェル•ホシノさんを尋ねた。竹で無造作に飾られたショップのエントランスでレイチェルに出迎えられる。どんな国籍とも例えられない、エキゾチックな容姿と、人懐こい笑顔が印象的だ。
レイチェルの家族構成を聞いてみた。父方の祖父と祖母は日本人で北海道出身。1920年頃に移住してきたそうなので、日系ブラジル移民の歴史のなかでも初期の世代であるものの、日系人による労働組合が設立しはじめた時期だったことを考えれば、非常に幸運だったとも思われる。なぜなら移民開始から約10年は、先に移民して来たイタリア人同様、日本人移民も奴隷解放令に伴う労働力不足を補うために導入されたもので、法律上の地位こそ自由市民であったもののその実生活は奴隷と大差ないものであったからだ。日系移民の居住環境は悪く、労働は過酷なうえ超低賃金と待遇が悪かったために、帰国のための貯金どころではなく借金が増える一方であった。コーヒー農園から逃亡した多くの日本人移民は、結果的に自らの農地を取得し自作農となることを選択し、日本人移民同士で資金を出し合い共同で農地を取得し、「植民地」と呼ばれる集団入植地や農業組合を形成するようになり、1919年には、初の日系農業組合として、ミナスジェライス州に「日伯産業組合」が設立された。いわば本来の目的である出稼ぎとしての労働環境が整備され始めたタイミングで、レイチェルの祖父母はブラジルでの生活を始めることができたということだ。地方都市で数年農家を営んだ後、レイチェルの祖父母はサンパウロ州へと移り、その息子である彼女の父はサンパウロで育った。
一方、母方の祖父はドイツ出身のユダヤ人で、ナチス政権から逃れるため、1933年にブラジルへ渡って来た。祖母はポルトガル人で、レイチェル本人は日系としては3世にあたる。
ホシノ家はみなセラミックスや陶器が好きで、祖母は家の一部屋を小さなアトリエとして使っていたそうだ。そのためレイチェルは幼少期から、陶器に関する様々な技術を家族から学んできた。やがて趣味の範囲を越え、作家として物作りを始めるに至って、最も影響をうけたものは浮世絵だという。「私はルーツである日本の、自然を題材にした浮世絵に魅せられました。日本人は複雑な色彩を簡潔に表す技を心得ていると思います。また、漫画の影響も強いんですよ! やっぱり年頃になると自分のルーツが気になって、本屋でいろいろ見ているうちに漫画に出会ったの。ブラジルにはあんなに素敵な読み物はなかったから、好奇心を思いっきりくすぐられたわ!」。なるほど、彼女の作品の絵は簡潔であるとともに、キャラクター要素が非常に強い。とても分り易くその影響が表現されている。
「もっと言えば、草間彌生さんといわさきちひろさんが好きでたまらない。彼女たちの作品から、余白の美の生きるシンプルなスタイルを学んだのよ。ブラジル人からは『ジャパンスタイルだ!』と言われるわ。一般的なブラジル人にとっても、日本的であるということがわかりやすいのだと思う。でも、完全にジャポンであるものだと売れないはず。例えば本物のこけしよりも、ブラジルで育った私から見て、解釈したジャポンのエッセンスを表現しているから、プロダクトとしての存在価値があるし、売れ続けているのだと感じているわ」。
レイチェルと話していて興味深かったことは、今まで会ってきた日系3世の方々と比べて日本の文化に関する知識が豊富な割に、日常的な日本の習慣などについてはまるで何も知らない点だ。知ってる日本語を聞くと、「たまご......」と答えたが、先が続かない。オジイチャンとかミソシルとかオハヨウとか、3世なら知ってそうな言葉を知らないのだ。その訳を聞いてみると、日伯関係の歴史とは切り離せない事実に話が及んだ。「日本人は差別を受けていたため、多くの日系移民は自分が日本人であるということを隠していました。私の父もそうだったのです。ブラジルに来たとき、父は11歳でした。それはちょうど戦争中で、こちらでは日本語の使用は禁止されていました。日本はブラジルの敵国だったからです。日本人学校も閉鎖されていました。教育を受けるためにはブラジルの学校に通うしかありません。そこで父は11歳にしてポルトガル語を習い始め、差別やいじめに合わないように、日本語を話さなくなりました。ブラジル人になりすまし、通学したそうです。同級生からは、極端に頭の悪い奴だと思われていたらしいです。こんな苦い経験を味わったから、彼はあえて私に日本語を教えなかったんですよ」。いろいろ考えさせられるエピソードだった。1945年にブラジルは日本へ宣戦布告している。当時ブラジルで暮らしていた日本人は何を思っただろうか? ナチスから逃れるようにブラジルへ移住したユダヤ人の祖父のことと合わせて、目の前で僕に微笑むレイチェルの身体に流れる様々なルーツの重みを感じずにはいられなかった。
話を聞いていたショップの奥には、レイチェルのスタッフが作業するアトリエがあった。そこではブラジル人が黙々とダルマを造っている。
帰り際、レイチェルがさらに興味深い話を切り出した。「私は日系2世の男性と結婚していました。今はもうしていませんが。でも......、はい、日本人男性は好きです」。
「......」。
あまりにいろんな文化が混ざり過ぎて、自分でも収拾がつかないことがあるであろうレイチェル、はにかんだ笑顔が素敵でした。ありがとう。