釜ヶ崎連続WEB小説
第十二回「動じない」
文・安藤久雄
写真・若原瑞昌
不思議な縁に導かれ、書きはじめた釜ヶ崎連続WEB小説もこれで最後です。この最終回、第一回から通して読んで頂くと、さらにぐっと来るので、時間に許してもらえる方は、何卒試してみてください。この一年間、拙い文章に付き合って下さり、本当にありがとうございました。/安藤久雄
フィンランドかどっかの真冬の湖のように、食べ終えたもつ鍋の油が膜を張ってる。
あの小人がまたまた現れて、間もなくスケート靴を履いて鍋によじ登り、歓声をあげながら膜に着地したかと思いきや、ずぶずぶと油に沈んでゆき、やっとのことで鍋底に足が着くと、オーノー、と両手を開いて落胆ぶりをアピールする。
あぁ、小人はなんでこないに阿呆なんやろう。やっぱり体が小さい分、脳みそが足りてへんのやろうか。ほんまにどこまでも憐れなやつや。
小人の肩が、減速する車のメーターのように下がってゆくのに合わせて、小人の姿がさらさらと消えてゆき、完全に空気に溶け入る寸前、僕の顔を悲しげに見上げた。
夕方、現像に出したフィルムを受け取りに行こうとドアを開けると、でーんと優花が立っとった。あの猫と、おっきな紙袋二つ抱えて、でーんと立っとった。
「あんな、田舎のお母さんが入院してもうてな、急に帰らなあかんくなってん。このもつあげるし、あっ!」
と、話の途中で、猫が僕を目がけて飛んだ。そして、がしっ、と、俺の首根っこに前足を巻き付け、横っ腹を後ろ足で締め付け、動かなくなった。
「またや......。なんなんこの猫?」
「あは。ちゃーちゃんはよっぽどジゴロのこと好きやねんな。よしよし、ちゃーちゃん、優花が帰って来るまで、このジゴロに可愛がってもらうんやで。」
と、優花が猫の頭を撫でた途端、かぷっ、と手の甲を思い切り噛まれた。
「いったーい!」
「これまた、またやな。消毒してくか?」
「ううん、ええ。」
その騒ぎに目を覚ましたお父さんがやって来て、
「坊主、どないした......、お、優花、な、な、な......、ぶえっくしょん!」
「あらあんさん、あんたまだ猫アレルギー治ってへんのん。ほなジゴロ、この中にちゃーちゃんのごはんとトイレ入ってるし、よろしく頼むわな。」
「頼むって、お、お、お......、ぶえっくしょん!」
「ほなあんさんお大事にー。さいなら。」
と、血の流れる手をひらひらさせながら、優花は去ってった。
「ぶ、ぶ、ぶえっくしょん! おい坊主、どうゆうことや?」
「どうゆうて、こうゆうことや。ほなお父さん、僕、写真受け取りに行かなあかんし、この猫と荷物......。」
「みゃーーーーー!」
「はいはいごめんよ。すぐに戻るからええ子にしい。」
「みゃーーーーー!」
「はい、お父さん、あとは頼んだで。さいなら。」
「おい坊主、ちょ......、ぶえっくしょん、ぶえっくしょん、ぶえっくしょーん!」
「みゃーーーーー!」
ここみはまた、クマに話しかけとった。そのときのここみの目には、光が射してない。
「毎度!」
「けんちゃん遅い。なにしとったん?」
そやけどこうして僕を見つけると、ふぁーって光が射し込んで、ここみの瞳は大きくなって、心なし茶色がかる。
そして歩きはじめると、これまた茶色がかった髪の毛がふわふわと跳ね、それを見てるだけで、僕の心は軽くなってく。
「ごめんごめん、招かれざる客がやって来てな。」
「客? 誰?」
「猫。」
「猫?」
「うん。僕に、がしっ、て巻き付いて、動かへんくなる変な猫。」
「のら猫?」
「ううん、飼い猫。」
「ほな誰かが連れて来たん?」
「うん、優花。しばらく預かってって。」
「優花? 誰?」
「お父さんの友達の遊女。」
「遊女て、飛田の?」
「おー、ここみはやっぱ知ってたか、飛田の遊女。」
「うん、お母さんに聞いた。」
「お母さんに? ここみのお母さん、変わってるな。」
「それはけんちゃんのお父さんや。どんなひとなん?」
「気になる?」
「うん、ちょっと......。」
「ほなこのあと写真受け取ったら、家においでよ。」
「え、家に?」
「うん、今夜は多分、もつ鍋やで。好き?」
「うん、むっちゃ好き。」
「よしゃ、決定ー!」
ちんちん電車の恵美須町の駅の横に、その写真屋はひっそりとある。
ここみは、棚に陳列された古いカメラの埃を、ふーーーっ、ふーーーっ、て、貧血を起こす勢いで飛ばしてる。
「や、や、や、や、矢野はんですねぇ。」
奥に写真を取りに行った店主はよぼよぼで、ここみの起こす風で飛んでいきそうや。
「こ、こ、こ、こ、これですねぇ。」
と、持って来た袋から横長の封筒みたいなものを取り出し、中身を確認してもらおうと、ぷるぷる震える手で写真を手にした。
バラバラバラー!
ここみが起こした風のせいではない。店主の手のぷるぷるのせいで見事、写真は床に散乱した。と、その中に女の裸の写真らしきものを2枚見つけた。
「大丈夫ー?」
と、やって来るここみにその写真だけは見られへんよう、慌ててコートのポケットに仕舞った。
「う、うん、大丈夫やで。」
「そう、わたしはなんや、ふらふらする......。」
「へへ、そらそうやろう。」
ここみを連れて家に帰ると、二本足で立つ虎がおった。
「これ。この虎が僕のお父さん」
ここみはしばらくぽかーんとしてたが、我に返って、
「あ、はじめまして。中嶋ここみと申します。」
と言うた。
お父さんは虎の帽子をゆっくりと脱いで、
「いらっしゃい。健太の父の源三です。」
と、普通に答えたかと思いきや、
「ぶ、ぶ、ぶえっくしょーん!」
と、やはり一発ぶちかました。
「や、やっぱ帽子脱いだらあかんな。全身虎やないと効き目ないねん。」
と、そそくさと帽子を被るお父さんに、
「なに、なんなん? どういう意味?」
と聞くと、
「いやな、虎はネコ科やろう。そやから、猫とおんなじネコ科の虎になったら、少しはアレルギー治まるかと思うて、試しに着てみたんよ。」
と答えた。
「で、治まったん?」
「うん、ぴしゃりと。」
「嘘やろ?」
「嘘ちゃうやんか。こうしてちゃんと喋ってるやんか。」
「せやなぁ。」
「せやろぉ。」
「ん、ま、ここみ。これが僕のお父さんや。」
「う、うん。」
「で、この足に巻き付いてる猫がちゃーちゃん。」
「みゃーーーーー!」
「う、うん。」
「で、お父さん、晩ごはんは?」
「もつ鍋。」
「な。ここみも食べるやろう?」
「え、いや、ほんまいいのん?」
「ええよなぁ、お父さん?」
「あぁ、もちろん。」
「みゃーーーーー!」
「ほなお言葉に甘えて......」
「みゃーーーーー!」
はじめのうちは遠慮してたここみも、気づけば僕の拳二つ分くらいのもつを平らげ、締めのラーメンなどは三杯もおかわりし、終いには「あー、もーあかーん。」と言うて、倒れるように畳に寝そべった。
ちゃーちゃんは、そんなここみの回りを終始うろうろし、寝そべったときにはすたすたと顔に近づき、頬をぺろぺろと舐めた。どうやらここみはちゃーちゃんに、合格点をもろうたらしい。
少し酔っぱらったお父さんも横になり、それを見計らったように現れた小人も、あっという間に油まみれのまま消え去り、しばしの沈黙が降りてきた。
なんか、なんでか、あったかいものがようさん詰まった沈黙やった。
僕は玄関に置きっぱなしの写真を思い出し、あったかさでぱんぱんに膨れた体で立ち上がった。こたつを半周して下を見ると、ここみが短い針となって8の方、お父さんが長い針となって6の方を指していて、もしかして、と壁に掛かった時計を見ると、やはりおんなじ8時半で、くすくす笑う僕の体はもっと膨れた。
玄関はほどよくひんやりとして、火照った頬に心地よかった。このままここで写真を見てしまおうかとも思うたけど、居間のちゃーちゃんが、みゃー、みゃー、と呼ぶので、一息ついてから戻っていった。
「あ、写真?」
と、ここみがちゃーちゃんをだっこしながら聞いてきた。
「うん。」
「なんの写真なん?」
「わからへんねん。押し入れ片付けてたらころころ落ちてきてん。」
「へー、なんやわくわくするね。」
「せやな。」
「あ、お父さん寝てる。あ、帽子脱げた!」
「ぶ、ぶ、ぶ、ぶえっくっしょーん!」
「あはははは。お父さん、帽子帽子。」
「あっ、どこやどこ......、ぶえっくっしょん! あった!」
「あはははは。お父さん、例の写真、今から見るで。」
「おっ、見よう見よう。」
「ほな開けるで......。」
写真はみんな、赤茶けていた。光の粒が毎日毎日、何年もかけて薄い隙間から入り込み、フィルムを浸食していった、という感じで、それでも写ってるものたちは、その輪郭をくっきりと残しとった。
「坊主......、みんなお前のお母さんや。」
写真屋店主のぷるぷるのせいで、時間は跳ねたり戻ったりした。
赤ちゃんの僕の横で寝そべる、すっぴんの穏やかな顔をしたお母さんの後に、通天閣の前で、裾の広がったジーパンに厚底のブーツを履いた厚化粧のお母さん。そして、すぐそこの公園のベンチに日傘を差して座り、大きなおなかに手を当ててる薄化粧のお母さん。そのほとんどが、初めて見るお母さんやったけど、そのほとんどが、僕の胸にすとんと落ち、ほかほかほかほかあったかかった。
そのとき「みゃ......。」と、ちゃーちゃんが鳴いて、三人揃ってそっちを見ると、俯いたちゃーちゃんの顔から、大きな雫がぽたりと落ちた。
「......え、今ちゃーちゃん、涙こぼした?」
と、ここみが言い、
「ま、まさか、猫が涙こぼさへんやろう。」
と、僕が言うと、
「せやせや、今のはただのよだれや。」
と、お父さんが続いた。
するとちゃーちゃんが顔を上げ、目にいっぱいの涙を湛えて、
「みゃーーーーーっ!」
と叫んでお父さんの首根っこに飛びついた。
「いたたたたたたっ!」
ドラキュラと化したちゃーちゃんを、ここみと一緒になんとか引き剥がし、きつく抱き締めてよしよししてやると、「みゃ〜ん......。」と、僕の目を見て悲しげに鳴いた。
その目を僕は、いつか遠い昔、どこかで見たような気がしていた。
ここみが、そろそろ帰る、と言うた。あの写真見てたら、わたしもお母さんに会いたくなってきた、と。
家まで送る、と言うたんやけど、すぐそこやから大丈夫、走って帰るし、と断られた。
「お父さん、おいしいもつ鍋ごちそうさまでした。ほなちゃーちゃん、けんちゃん、またね。」
とドアを開けた瞬間、冷たい風が舞い込んで来て、ここみの体をもみくちゃにした。
「うわー、雪や......。」
ここみが呆然とつぶやき、僕はすぐさまここみの後ろに駆け、外を覗いた。
「ほんま、雪や......。」
「ここみちゃん、気いつけてな。」
と言うお父さんに、
「はいっ。」
と満面の笑顔で答え、ここみは颯爽と駆け出した。ここみの茶色い髪がぴょんぴょんと跳ね、僕の心はこの上なく軽くなった。
「ええ娘やなぁ。」
と、居間に戻ってくお父さんに、
「お父さん、これ。」
と、写真を2枚、手渡した。
「ん、なんやなんや。」
と、こたつに入りながら写真を目にしたお父さんの動きが一瞬止まった。
「みゃーーーーーっ!」
と、同じく写真を目にしたちゃーちゃんが、その写真をくわえて走り去った。
「ま、なんや、あの写真はアートや、アート。ほんで、この写真は、坊主、お前や。」
と、手渡された。
見るとその写真には、風呂から上がってすぐのお母さんの姿が写っており、おなかは風船のようにぱんぱんに膨れ、はちきれそうやった。
「お母さん、ええ顔してるなぁ。」
と、お父さんに言われてその顔を見ると、今にも陽気な鼻歌が聴こえてきそうな、確かに素敵な笑顔やった。
「おい坊主、寒い! 風呂へ行こう!」
唐突に、お父さんが叫んだ。
空には煌々と満月が光っとった。その中をきらきらと、無数の雪が地面目がけて、まっすぐまっすぐ降り注いでいた。
「ろ〜っこお〜おろ〜しに、さあっそ〜おおと〜♪ 坊主、雪玉作れ!」
と言い放ち、お父さんはコンビニの前に置いてあった段ボールを巻いて、でかいプリッツみたいなバットを作った。
雪はまだうっすらと積もってるだけで、玉を作るにはいろんな場所からかき集めなくてはならなかった。
「早くせい、坊主!」
ちっ、エロタイガーが偉そうに......。
「よし、ええ玉できたでー!」
「よし、勝負や!」
「おう、負かしたんで!」
僕はお父さんを睨みつけ、両腕を大きく振りかぶった。そして左足を持ち上げ、右足を突っぱね、左足を地面に叩き付けた直後に右腕を振り抜いた。
白い玉はまっすぐ、見えないミット目がけて飛んでいった。
ッパーーーーーン!
バットに当たった雪玉は、花火のように砕け散ったはずやった。そやのに玉は、僕の頭上を飛んでゆき、ぐんぐんぐんぐん遠のいていった。
玉が闇に消えるのを見届け、ふと顔を上げると、そこには通天閣が立っていた。
満月に照らされた通天閣は、降りしきる雪の中でも微動だにせず、凛としてそこにおって、僕はなんや、小人になったような気分やった。
「おい坊主。」
振り返ると、ちいさな虎が笑っとった。
「春になったら一緒に住まへんか?」
虎はそう言うと、一段と笑った。
「一緒にって、おじいちゃんに反対されるで。」
「そんなん知らん。俺らは親子や。」
「......うん、そうやな。」
「そうや。」
「ほなちゃーちゃんも引き取ろうや。」
「はぁ? なにが、ほな、やねん。」
「いや、ただなんとなく......。」
「なんとなく、て、ほな俺は毎日このかっこなん?」
「せやな。」
「せやな、て......。」
「ま、取りあえずは風呂や風呂! ちゃーちゃん待ってるし!」
「せやな。て、こらー!」
なんて言いながら、お父さんもほんまはわかってんねや。ちゃーちゃんが、ほんまは誰かってことくらい。
■過去連載記事:
第一回「脱げない」
第二回「消えない」
第三回「覚束ない」
第四回「浪速クラブ」
第五回「喫茶カローラ」
第六回「手が出ない」
第七回「ホーリーない」
第八回「隠せない」
第九回「見たくない」