釜ヶ崎連続WEB小説
第十一回「グッナイ」
文・安藤久雄
写真・若原瑞昌
ふたりはクマの前で出会い、動物園のような街を抜け出した。そこでふたりが見たものは、煙突の炎に火傷する月。闇にまぎれて引火した、密かな初恋の物語。
ねぇ、クマ五郎、わたし、疲れた。
この街のぜんぶに、わたし、疲れた。
わーわー、きーきー、ぷーん、ごちゃごちゃ。
なんやもう、うるさいし臭いし、目がチカチカする。
ママはなんで、平気で笑ってるんやろう。
パパはなんで、なんとも言わへんのやろう。
なんやもう、ほんまわからん。
クマ五郎、わたし、変?
「っはぁ〜。」
クマ五郎、あの子、誰?
むっちゃええ感じのため息ついたけど、誰?
飴玉みたいに光る丸い目。
紙ひこうきみたいにきれいな鼻。
嫌味を言うのにちょうどいい口。
フェンスに絡まるきれいな指。
謎の暗号みたいな体の線。
ぜんぶがこの辺では見かけない感じ。
クマ五郎、あの子、誰?
「あのクマ、君のん?」
「ううん、ちゃう。」
あぁ、わたしのいまの返事、なんや怒ってるみたいやん。
「あのクマ、みょうにリアルやけど、死体とか入ってへんよなぁ。」
死体......?
この子、変やわ。
「君、お腹空いてへん?」
「え......。う、うん、ちょっと空いてる......。」
「ほなそこのキャベツ焼き、付き合うてくれへん?」
「うん、ええけど......。」
「よし、ほな行こー。」
なに、なんなんこの子のこの感じ。
なんなん、この楽しげな歩き方。
まるでミッキーマウスやん。
「そこのキャベツ焼きなぁ、うまいねん。」
「うん。」
「水やなくて出汁でこねてるねんて。」
ミッキーが出汁って。
この子、やっぱ変やわ。
「この商店街、入ってすぐやねん。」
「うん。」
「ほら、着いたで。何枚食べる?」
「え? 1枚。」
「ほんま? ここのんほんまにうまいねんで。」
「うん......。でも1枚でええ。」
「そうかぁ。ほなお兄さん、3枚ちょうだい!」
ミッキーのあほ。
わたしが2枚なんて言う、女の子に見えたん?
「よし、買うたで。」
「お金......。」
「ええって。それより君、なに飲む?」
「え?」
「これにはペプシが合うねんけど、それでええか?」
「う、うん。」
「よしゃ。」
ガチャン、ガチャン。
「ひえー、冷てー。よし、食べよ、食べよ。」
ミッキーはそう言うと、階段を駆け上った。
そこにはチンチン電車の駅があった。
街より少し高台にあって、わたしはいままで来たことがなかった。
「はい。」
ベンチに座ったミッキーは、すぐ横にわたしの分を置いた。
「はよ食べへんと冷めるで。」
「うん、ありがとう。」
わたしは少しおどろいていた。
ここは、この街やないみたい。
わたしはなんやうれしくなって、あの子を見た。
「なに、なに笑うてん?」
「ううん、なんでもない。いただきまーす。」
おいしい。ほんまにおいしい。
そやけどそれは、出汁のせいだけやない気がする。
「な、うまいやろう。ほら、コーラも飲みい。」
「うん、ありがとう。」
ぷはー、あー、スカッとするー。
ほんまうまいー。
「ふふふふふふふふ。」
「なに、なんなん?」
「いや、うまそうに飲むなぁ、て思うて。」
「うん、だってほんまにうまいねんもん。」
「せやな。」
「ねぇ、このままチン電乗らへん?」
「ええけど、どこ行くん?」
「街とは逆の方の終点。」
「浜寺公園?」
「知らんけど、うん。」
「わかった。ほなホームあっちや。はよ食べてまおう。」
「うん。」
なんやむっちゃわくわくしとった。
そやけどそれは、急な遠出のせいだけやない気がする。
「旧型のんでラッキーやったな。」
ミッキーは、車中をきょろきょろ見回しながら言うた。
「なんで?」
わたしは、ミッキーだけをまっすぐ見ながら聞いた。
「チーンていうベルがな、新型のんとは相性悪いねん。」
「うん。」
わたしたちは、相性がいいのかもしれへん。
窓に写る空がどんどん大きくなっていた。
空は大きくなるほどに、その光を失くしていった。
ミッキーが、つぎ、終点やで、と言った時には、もう月が色づいていた。
「ねぇ、みんな降りるとき、ベル押さへんかったね。」
「あぁ、鳴らさへんでも各駅に止まるからなぁ。」
「わたし......、押していい?」
「えー、僕が押したーい!」
「......ほな、ええわ。」
「うそうそ。君が押しい。」
「え、ほんまええのん?」
「うん。」
「ほな......、押すで。」
「うん。」
チーン。
一気に空が暗くなった気がした。
夜が静かに落ちてきた音や思うた。
「な、旧型でよかったやろう。」
ミッキーが、マシュマロのような声で言うた。
「さて、どこ行く?」
「海。」
「残念。ここが海やったんは昔の話で、いまはもう遥か西の方や。」
「え、でも海の匂いするやん。」
「そうか?」
ミッキーは紙ひこうきを羽ばたかせるように、鼻でくんくんてした。
「ふふ、もうええよ。ほな公園に行こ。」
「おお、公園の奥に、海だった川ならあるわ。」
「あ、ほなそこ行きたい。」
「おお。」
ミッキーはまた、楽しげに歩きはじめた。
そのうしろ姿を眺めとったら、頬がだいぶゆるんだ。
「おおー、空が広いなぁー。」
「うん。」
「あの街は空が狭いから、気持ちええわー。」
「うん......。ねぇ、ミッキー。」
「は? ミッキー?」
「あ......、ちゃうくて、君、名前なんていうのん?」
「健太。矢野健太。」
「ほな......、けんちゃんでええ?」
「うん。」
「ねぇ、けんちゃんはあの街が好き?」
「え、まだ来たばっかやし、そないなこと考えたことなかったわ。」
「そっか、そうなんや......。」
「そやけど......、好きやで。うん、むっちゃ好きや。」
「むっちゃ? え、どうゆうとこが?」
「せやなぁ、ひとがみんな、飼いならされておれへんとこかなぁ。」
「ケモノっぽいってこと?」
「ふはは。臭いもそやな。」
「うん、街も臭いも動物園みたい......。」
「なに、君は、あ......、君の名前は?」
「ここみ。中嶋ここみ。」
「ええ名前やな。」
「そう?」
「うん。」
「ありがとう。」
「うん。で、ここみはあの街きらいなん?」
「うん......。」
「せやな、ずっとおったらしんどいかもな。」
「うん......。」
「僕がおってもあかんか?」
「え?」
「いや、もし僕が、あの街にずっとおっても......。」
「なに、けんちゃん、越して来たんやないのん?」
「うん、いまはちょっと、かり暮らし。」
「え、ほなどっかに行ってまうのん?」
「うん、かもしれへん。」
「いやや。」
「え?」
「いや......、なんとなく、おってほしいな、って。」
「お、おう......。」
「うん......。」
「うん。頃合い見て、お父さんに言うてみる、一緒に暮らしたいって。」
「え? わたしと?」
「え? いや、お父さんとやで。」
「あ、そうか。あはは、そやね。」
「そや、びっくりさせんといて。」
「ごめん......。」
「いや......、ええねん。」
「せやけどほんま、おってほしい。」
「うん。わかった。」
「うん......。」
「あ......、ここみ、月が燃えてる。」
「え?」
見ると遠くの工場の、炎を吹き出す煙突の上に、月が乗っかっとった。
「火傷してまうね。」
「うん。たまんないな。」
そう言うて、しばらく二人で月を見とった。
帰り道、暗いから、って、けんちゃんは手をつないでくれた。
チン電に乗って明るくなっても、手はつないだまんまやった。
「家、どこ?」
「職安のそば。」
「ほな、動物園は危ないし、送ってく。」
って、街に着いても手をつないでくれた。
なんや、体がほかほかした。
「ここ。」
「うん。」
「ほなけんちゃん、またクマのとこでね。」
「うん。グッナイ。」
「グッナイ。」
■過去連載記事:
第一回「脱げない」
第二回「消えない」
第三回「覚束ない」
第四回「浪速クラブ」
第五回「喫茶カローラ」
第六回「手が出ない」
第七回「ホーリーない」
第八回「隠せない」
第九回「見たくない」
第十回「占い」