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Nikkei Brasileiros! vol.10

カズオ ワタナベ(弁護士/法学博士/ブラジル日本比較法協会会長/元最高裁判所判事)

 日伯交流100周年企画
後援=在日ブラジル大使館
協 力=AMERICAN AIRLINE

Photoraphs & Text by Mizuaki Wakahara(D-CORD)
Directed by Ryusuke Shimodate
Edit by Tomoko Komori

Camera Assistant by Yayoi Yamashita
Coordinated by Tamiko Hosokawa (BUMBA) / Erico Marmiroli


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2008 年、地球の裏側ブラジルへの移民がはじまって100年の月日が流れた。今では150万人を超える日系人が暮らしている。 南半球最大都市サンパウロへ「japon」に会いに旅にでた、日系ブラジル人ポートレイト集。

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2008年10月9日

 移民100周年の歴史は、戦前と戦後で大きく変化する。その過渡期を経験した世代のほとんどは日系2世であり、今日お会いするカズオ・ワタナベさんはその象徴的な存在だ。
 サンパウロ中心部の彼の法律事務所を訪れた。前回のヒカルド・オオタケさんに続き、またもや大物を訪問だ。今日は己を〈ジャイアント・キリング・ミズアキ(大物喰いミズアキ)〉と呼ぼう。

 いわゆる〈堅い業種〉に分類される職業のど真ん中を歩き続けてきたような経歴の持ち主へのインタビューには作戦が必要だ。こんな方にこそ、優等生の最もらしい話よりも、不良少年の愚痴のような想いを聞かせてほしい。


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 移民の日本人の両親のもとに生まれたワタナベさん。ワタナベ家もまた多くの移民家族同様、日本で戦争がはじまったために帰国できなくなってしまった。いつ終わるかわからない戦争。しばらくはブラジルに居続けなければならないため、ワタナベさんはとりあえず現地の小学校へ通うことになる。
 やっと終戦の知らせが届いたが、日本の勝敗情報は真っ二つに割れていたため、日本への帰国へわずかな望みを持っていたワタナベさんの両親も、今その土を踏んでいるブラジルの大地へ骨を埋める決意をする。そんな日系社会が大きく揺れている時代にワタナベさんは高校生──思春期だった。同じ学校や地元の日系の友人などと『2世クラブ』(サークルのようなもの)の活動をしていたが、そこの仲間も母国の立場をめぐり分裂し、対立した。日本の勝利を信じる者は、敗北情報を受け入れる者を激しく罵り、ブラジル社会へ同化してゆく者を批判した。
 日本人として生きるか。日系ブラジル人として生きるか。その決断を迫られた。日本の血統をあるものは誇りに感じ、またあるものはコンプレックスに感じていた。
 「正直本当につらい時期でした。大切な仲間たちを多く失いました。ルーツの文化を守り続けながらも、ブラジル社会で生きていけばいい。どちらかではなく、両方の想いを持ち続けられると信じていましたが、それは仲間には上手く伝わりませんでした」。


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 「ブラジルで生きて行くならば、ブラジル社会に認められなければならない」。自らを〈日系ブラジル人〉と公言しはじめた初めての世代は、果敢にブラジル社会に挑戦していくようになる。この連載のVol.6で訪れたアルモニア学園もこの時代の流れのなかで開校され、ワタナベさんも大学進学前の1年間をアルモニアで過ごした。
 '59年に大学を卒業したワタナベさんは弁護士として働くかたわら、裁判官を志し、試験へ向けての勉強を始める。「日系人が裁判官テストで合格をもらえるわけないじゃないか!、と周りから言われましたよ。でも、最も保守的であろう場所へ挑戦することを醍醐味に感じたんです。もちろん不安もありました。当時はアメリカでも人種差別が今より顕著だったし、オリエンタルな容姿の移民をブラジル国家が受け入れてくれるなんて話は、夢物語でしたよ」。
 '62年、ワタナベさんは裁判官テストに合格する。ブラジル人でも女性の裁判官がひとりも存在しなかった保守的な時代のサンパウロの裁判所で、裁判官として働くことになった。(ちなみにブラジルで最初に女性の裁判官が誕生したのは'81年のことである。)
 その後ワタナベさんは、日系人として初めて最高裁判所の判事となった。
 '08年現在、サンパウロ州だけでも50名の日系人裁判官、60名の日系人検察官が在籍している。彼らのパイオニアがワタナベさんであることは言うまでもない。

25年もの間、裁判官としてキャリアを続けたワタナベさんだが、「現場にて人種差別を経験したことはただの1度もありません。ずいぶんかわいがってもらいましたよ」とその歳月を表現した。
 なんと美しい話だろう。僕はこの言葉をそのまま信じると決めた。


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 日系ブラジル人の歴史を半世紀以上に渡って体験してきたワタナベさんに、移民100周年という節目への想いを聞いてみた。
 「正直嬉しかったです。ブラジル全土が国をあげて盛大に祝ってくれましたから。愛されているし、尊敬してもらっていると実感できました。一方、残念に感じたこともあります。移民100周年の記念ロゴはブラジルでデザインされたものですが、その日本版ロゴから〈移民〉の文字は消されていました。タイトルは〈交流100周年〉と変更されています。〈移民〉という言葉を使いたがらなかった人がいるということです。天皇陛下がブラジルでの記念式典へ出席できなかったかわりに、国内の日系ブラジル人の多い群馬県の太田市や大泉町を訪問してくださったことは大変ありがたく感じましたが、日本では日系ブラジル人の〈日本出稼ぎ〉を快く思っていない人がたくさんいます。マスコミも含め、在日日系ブラジル人への眼差しがポジティヴなものとは思えないんです。だからブラジルに日系人が150万人以上も存在することを、日本人はあまり知らないでしょう。ブラジルと日本では日系ブラジル人に対する意識が全く違うんです。移民を恥だと思っている人がいるということですよ。ちょっと批判的になってごめんなさい」。

 
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 ワタナベさんの趣味は囲碁である。17歳のころ『2世クラブ』の友人に教えてもらったそうだ。碁石を打つ手さばきがきれいだ。ブラジル人とインターネットでよく対戦しているらしい。本棚にずらりと並ぶ法律専門書は途中からNHKの囲碁教則本へと流れるように続いている。


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 一瞬のスキもないようなワタナベさん。まさにエリート像そのものの優等生キャラである。アルモニア学園の校長先生が誇らしげに「カズオ・ワタナベさんも卒業生なんですよ!」と言うのも無理はない。僕の稚拙な質問にも終始誠実に答えてくださったことを忘れません。

 「『八代亜紀』好きなんですか?」。
 「えっ、あっ、まぁー......」(←かなりモジモジしてました)。

 貴重なお時間ありがとうございました。



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