釜ヶ崎連続WEB小説
第七回「ホーリーない」
文・安藤久雄
写真・若原瑞昌
誘拐され、刑事である父親のもとに戻された少年だったが、早速知らない女へ預けられてしまう。女の部屋には、奇妙なトラ猫が一匹いたが、そいつが妙に絡んでくる……。
優花が電話しとる間中、ちゃーちゃんは玄関に向かって叫んどった。むっちゃ一方的に電話を切られて優花がシュンとなっても、ちゃーちゃんは尻尾を立てて叫び続けた。
そやけど優花、ちゃーちゃんの声を久しぶりに聞いた気がする。必死で叫ぶちゃーちゃんをまじまじと見ると、濃ゆい茶色のトラ柄がいつもよりくっきりと見えて、それは多分、コップからツーっと水が溢れるくらい、ようさん眠りこけたせいや。
ちゃーちゃんが飛び出さへんように抱っこして、ドアを開けてみたけれど、誰もなんにもおらんかった。
叫び続けるちゃーちゃんを降ろし、スウェットの上からロングのダウンジャケットを羽織り、ちゃーちゃんが出ないよう、忍者のようにドアを開けて隙間から抜け出し、ボサボサの頭を撫で付けながら階段を降りると、いやはやほんまに子供がおった。
「あ、もしかしてお姉さんが優花っていう人?」
「そうでありんすけど......、預かるってどうゆうことなん?」
「うん、それはもうさっき電話で聞いたと思うけど、お父さんは今夜一晩張り込まなあかんから、代わりに優花が僕を預かるってだけのこと。」
「だけのこと......。てか坊や、いま優花って呼びつけにした?」
「ん? てか優花、今夜はイブやけど仕事休みなんやろう?」
「......。」
「ほな優花、パーティの買い出しに行こ。スーパーはどっちや?」
「え、え、ちょっと待って、部屋の鍵閉めとらんし、こんなかっこやし、あ、お金かて持ってへん。」
「お金は僕が持っとるし、部屋てなんや大事なもんあるん?」
「ちゃーちゃん......。」
「なんやそれ?」
「猫......。」
「あ、留守番がおるんやったら安心やん。行こ行こ。そのかっこもかわいいで、優花。」
ジゴロな子供と口下手な大人、タイプはまったくの正反対やけど、この厚かましさは完全に遺伝や......。
「こ、これはクリスマスやからこうなんか......?」
「ううん、いっつもこうやで。」
「嘘やろ。このネオンの大洪水、完全なる時代へのアンチテーゼや......。」
ジゴロはスーパー玉出が初めてらしく、軽くショックを受けとった。そやけどそれも最初だけで、しばらくするともうジゴロはジゴロ然として、「やっすいのぉ。これみんな中国産とちゃうやろなぁ。」と、中国人の店員の脇でこれみよがしに言い放った。
ジゴロは商品を掴んでは、「これある?」と何度も聞いてきて、優花は「ううん、ない。」と、もう最後の方は少し恥ずかしくなりながら答えた。「優花ん家はなんもないんやなぁ。レンジはちゃんとあるんやろうなぁ?」と、ジゴロが疑惑の目を向けてきたので、「え、うん、それはある。ちゃんとある。」と、しどろもどろに答えた。「そうかぁ。ほなもうこれくらいでええか。」とジゴロが言うた時には、もうカゴ二つが埋まっとった。
帰り道、優花のマンションの脇にある公園で立ち止まったジゴロは、「この公園、ベン・シャーンの絵みたいやな。」と言うてきて、「ベン、さん......?」と優花が困ってると、「え、知らんのかい。こんな荒れた感じの公園で、三人の子供が遊んどる絵あるやないか。ま、知らんところがまたかわいいけどな。」と、お尻をなでなでされた。さすがジゴロ、嫌な気分はせえへんかった。
「ゆ、優花、僕どないしたらええのん?」と、ジゴロははじめて子供の顔になった。それもその筈、部屋のドアを開けて入った瞬間、待ち構えとったちゃーちゃんが、ジゴロの足にガシッと抱きつき、そのまま動かなくなってもうたのだ。「ちゃーちゃん? どないしたのん?」と、ちゃーちゃんの背中に触るが早いか、カプッと親指の付け根を噛まれてしまい、「いったーい!」と、今度は優花が子供の顔でジゴロを見上げた。「血、血、優花。消毒液、あるんか?」と、靴を脱ぎはじめたジゴロやったが、ちゃーちゃんは一向に離れようとせず、結局台所まで抱きついたまま、タタタタタ、タタタタタ、と、二足歩行で付いていった。「なんなんこの猫。いっつもこうなん?」とジゴロが言うた途端、ちゃーちゃんがジゴロを見上げて悲しげに鳴きはじめて、「ふふ、なんや言うとる。この猫かわいいなぁ。」とジゴロが優しげに言うと、ちゃーちゃんはやっと前足を降ろし、その足で今度はテーブルに飛び乗り、ジゴロの顔に顔を近づけ、柔らかな声で歌うように鳴いた。
優花の指を消毒し、「さ、あとは休んどき。」と言うたあとのジゴロは、ちゃーちゃんに行く手を邪魔されながらも俊敏で、あっという間に五品を調理した。せやけど、「さ、あとはケーキを焼いて、デコレーションするだけや。」とレンジを見たジゴロの動きが止まった。「ゆ、優花、これてもしかして焼けへんのん?」と眉をひそめて振り向いたジゴロに、「う、うん。優花、パンを焼いたこともないでありんす。」と肩をすぼめて返答した。「あちゃー。これどないしよー。」とジゴロが頭を抱えたとき、隣の部屋の窓がコツコツと鳴り、「ん?」と不審に思った優花たちは、ジゴロにお尻を抱えられるかっこで音のした窓にそろーりそろりと移動した。途中振り返るとちゃーちゃんもおんなじように歩いとって、思わず吹き出してしもうた。
ジゴロが窓の鍵を外し、「開けるよ。」と小さく言った。優花が黙って頷くと、窓が音も無く開いていった。すかさず「俺や、俺。源三や。」と下の方から声がして、「お父さん?」と言ってジゴロが窓から乗り出した。「これ、こいつをコンセントに挿してみい。」と下から聞こえ、脇から覗いてみると、警察が暴れる犯人を押さえつけるために先がYになった、西遊記の沙悟浄が持ってるような棒の先にプラグが引っ掛かっとった。それを手にしたジゴロは「コンセントどこ?」と振り向き、優花は黙ってそれを受け取り、ドレッサーの脇のコンセントに挿した。「うわっ、すげえ! 優花、優花!」とジゴロが急かすもんやから、ついついちゃーちゃんの尻尾を踏んでしまい、今度はくるぶしを噛まれてもうた。「いったーい!」と喚いたのに、窓の外を見てすぐに痛みを忘れてもうた。
ベン・なんとかの絵のような公園の一本の木が、無数の蛍が群がるようにきらきらしとった。それはそれはほんまに綺麗で、多分それはもう、ベン・なんとかの絵とは違う世界で、「なぁなぁ、これは誰の絵みたい?」てジゴロに聞くと、「こんなん、絵では見られへんよ。」と、ほんま大人みたいに答えたあと、「なぁ優花、さっきのあれ持ってきい。」と、今度はあの木をそのまま映したような子供のまなざしで言ってきた。ほんまにわからんくて、「あれ?」て聞き返すと、「ほら、レンジで焼けへんあれやがな。」と台所をあごで指した。「あぁ......。」と言い残し、慌てて生地を取って帰って来ると、「投げえ。」とジゴロが、今度は外を指した。
優花は二三歩うしろに下がって、一段大きく息を吸った。そして思い切り足を蹴って、「メリークリスマース!」と生地を投げた。庇があるので真横に飛び出したそれは、蛍の木の遥か手前で闇に墜ちたけど、なんや、なんやむっちゃ気持ちよかった。
窓の下でオレンジ色の蛍が灯り、煙草臭い「メリークリスマス。」が聞こえた。あぁ、このあったかさも遺伝や、と思うた
。
■過去連載記事:
第一回「脱げない」
第二回「消えない」
第三回「覚束ない」
第四回「浪速クラブ」
第五回「喫茶カローラ」
第六回「手が出ない」