釜ヶ崎連続WEB小説「恵美須東」
第三回「覚束ない」
文・安藤久雄
写真・若原瑞昌
大衆演劇の、とある一座。心臓を患った座長はその日、命からがら踊っていた。やっとのことで踊り終え、楽屋に帰り横になると、懐かしい幻想と邂逅する。
夜の海に落ちたみたいだ。
体がふわふわ落ち着かないし、やたら無性に胸が苦しい。水面越しに満月が見える。ゆらゆら青く煌めいて、浴びると皮膚がふやけてゆく。
あぁ......このまま眠りたい。かかげた腕を下ろし、ぴんと伸ばした首を折り、くずおれる。ほんのり明るい海底は柔らかく、微かに温かいことだろう。止めていた息を吐き出すと、ふぁーっと砂が舞い上がり、きらきら綺麗なことだろう。
あと三歩。あと三歩行ったら倒れてしまおう。潮の境の向こう側、有象無象に見られていようと。......一歩。......二歩。......。あぁ......向こう側から使いが来た。何やら伝えるために、イソギンチャクの使いが来た。「きれいやでぇ」。イソギンチャクはそう囁くと、自分がイソギンチャクであるためのひらひらを、俺の心臓に挿し込んだ。そしてその手で俺の手を握り、少しの熱を残して去っていった。
一息入れたおかげで胸は落ち着き、海が引いて水面から顔を出すまで、俺は何とか踊り通した。
座員の肩を借り、時間をかけて化粧前まで戻り、自分の顔を鏡に映してみる。顔色はおそらく、さっきの舞台と同じくらい青い。それでも白粉を塗りたくったそれは、舞台を去るにはまだ早そうだ。それでも緞帳が降りてくように、やおら視界は暗くなって、蕩けるように横になると、体の、床についた部分から順に、長い根っこが張っていった。
俺の心臓は、体が死んでも眠らない。ペースメーカーなる得体の知れない装置で、心臓だけが不死身になった。すべては己の天に唾吐く無法のせいだが、未だにこうして舞台に上がれるということは、異物の詰まった心臓をもってしても、血が沸くほどの喜びである。
昨日の芝居中、大見得を切った後にふらついたこともあって、今日一日は大事をとった。踊りは、ミニショーと本ショーのラストに一本ずつ。芝居は、主役の弁天小僧を副座長に任せ、完全に休演。
もうそろそろ芝居の幕が開くとあって、楽屋は今や喧騒のまっ只中にあるというのに、俺の回りだけは風が凪いでいる。
台詞、汗の臭い、足音、白粉の匂い、衣ずれ。
全身が根っこに引っ張られた俺にとって、すべては夢の上っ面を漂うようで、見えない指先を伸ばしてみても、そのすぐ先を掠めてゆく。それが無性にやるせなくって、繰り返し繰り返し伸ばしてみたけれど、そのうち俺は、森の切り株のように置き去りにされ、あっという間に眠りに落ちた。
懐かしい匂いに鼻をくすぐられ、俺はゆっくり瞼を開いた。
親父の背中が聳えていた。巨大な、フィヨルドの断崖のようなそれには、天空を目指す青い龍が、這うようにして牙を剥いてた。
俺は堪らず童心に返り、自分で自分を抱きしめて、再びぎゅうっと瞼を閉じた。
「起きたのか、坊主」。
懐かしい声に耳をくすぐられ、俺はまた、ゆっくり、ゆっくり、瞼を開いた。
眼をひん剥いた龍の向こうで、親父はにやにや笑っていた。
「怖かったのか、夢。うーうー、うーうー、うなされていたぞ」。
低い声を覆う、チョコのような甘さにほだされて、思わず「うん」と頷いてしまう。
「ふふ、そうか、怖かったか。よし、こっちへ来い。抱っこしてやる」。
龍が右に旋回して消え、代わりに太い両腕が、俺の体に絡まってきた。
「お、随分重くなったな。よいしょっ」。
そう言った割りには軽々と、俺の体を持ち上げて、そして自分の股に寝かせた。
真下から見上げる親父の顔は、いろんなものが垂れ下がっていて、何だか愉快だった。
「何だ。何かおかしいか」。
親父は更ににやにやして、もっともっと垂れ下がって、だからついつい聞いてしまった。
「お母さん、もうすぐ帰ってくる?」
加速した車のように、親父の顔のいろんなものが、一気にメーターを上げた。
「坊主、もうそっち行け。もう化粧する時間だ」。
俺は黙って立ち上がり、再び親父の斜め後ろに腰を下ろした。
再び姿を見せた青い龍が、俺を呑み込もうと、親父の背中から飛び出してきた。
「はぁっ、はぁっ、はぁっ、はぁっ......」。
悪夢から逃れてきた、自分の荒い息遣いが聞こえる。目は開いてるはずなのに、視界は一向に帰ってこない。すべての輪郭が曖昧で、色も滲んで定かではない。
視界の端っこで何かが動いた。細長くて黒っぽい、影。それが半分ほど縮んで、なにやらごそごそ蠢いている。
俺の記憶では、お袋はよく、黒い服を着ていた。
俺は今、夢から醒めて、現実にいる、はずだ。でももう何だか、自信すら曖昧になってきた。また夢に戻ったのかもしれない。まだ夢にいるのかもしれない。そうだ、多分きっと、そうだ。
「......お母さん」。
影の動きがぴたりと止まった。やっぱりまだ夢だったのだ。
「お母さん、おかえり」。
影がゆっくり立ち上がり、もとの長さを取り戻し、ゆっくり俺に近づいてくる。
「ずっと待ってたんだよ、お母さん」。
影がじいっと、俺の顔を覗き込んでる。泣いてるのかもしれない。さっきからずっと、体が震えているようだ。
「お母さん......」。
俺は、涙を拭こうと手を伸ばした。その途端、影は飛び退き走り去った。
それでも影は一度立ち止まり、多分こっちを振り返り、それから急な階段を、転がるように駆け下りていった。
風がここまで吹いてきて、その匂いはやっぱり、お袋のものに思えた。そして不思議とそれだけは、根っこの張った両の腕でも、しっかりと抱くことができた。
安藤久雄 Hisao Ando 多摩美術大学二部映像コース卒。数々の自主映画、写真、
イラス
ト作品を手がける。『一人デモ』が2003年、山形国際ドキュメンタリー映画祭・日本パノラマに招待される。平成19年、 写真集『うさぎ小屋のひみつ』
を出版し、同年NGOMA"voodoo eyes are
shut"のPVを監督。昨年から大阪の新世界に拠点を移し、フリーライターとして活動中。大阪は通天閣のお膝元、なにわっ子なら知る人ぞ知る大衆演劇小
屋「浪速クラブ」に突撃撮影に来た若原にナンパされ、今回の執筆に至る。
■過去連載記事:
第一回「脱げない」
第二回「消えない」