Nikkei Brasileiros! vol.4
トシヒコ・エガシラ(ざっくりと実業家)
日伯交流100周年企画
後援=在日ブラジル大使館
協力=AMERICAN AIRLINE
Photoraphs & Text by Mizuaki Wakahara(D-CORD), Tomoko Komori
Directed by Ryusuke Shimodate
Edit by Tomoko Komori
Camera Assistant by Yayoi Yamashita
Coordinated by Tamiko Hosokawa (BUMBA) / Erico Marmiroli
2008 年、地球の裏側ブラジルへの移民がはじまって100年の月日が流れた。今では150万人を超える日系人が暮らしている。 南半球最大都市サンパウロへ「japon」に会いに旅にでた、日系ブラジル人ポートレイト集。
2008年10月7日
「ブラジルに行けば儲かる」。
その言葉に魅せられて、ブラジルに渡った日本人は、いったいどれだけいたのだろう。今日会いに行くエガシラさんの両親も、ブラジルでの成功を信じ、幼い二人の息子を連れて移民船アルゼンチン丸に乗り込んだ。
タクシーでエガシラさんの事務所に着くと、本人自ら出迎えていただき応接室に通された。明らかに僕らの取材のためにセッティングしてくださった感じのする応接室は、簡単なテレビの番組でもできそうなくらいの演出がしてある。番組タイトルは『エガシラ・トシヒコの軌跡』。さすがビジネスマン、エガシラ。
数々の手がけてきた作品を背景に座り、エガシラSHOWがON AIRされる。
「日本では商売をしていて、いい暮らしをしていたんですよ。日本にいた頃は、僕のパンツにまでアイロンをかけていたって母は話していました。僕たちにはそんな記憶なんてないんだけど。うちの親父は、ダス・クルゼスという日系人のコミュニティーを出て、田舎で農業をやって一儲けしようと思ったら失敗して。持ってきたお金が全部パーですよ」。
そこからはじまるエガシラ一家の貧しい暮らしは、その後10年以上も続く。電気も水道もない、土壁の家には天井もなく瓦の隙間から空が見えた。
「7、8才まで親としか会話したことがなかったから、小学校にあがるまでポルトガル語も全然わからなかった。農業ばっかりの生活だったから、『百姓はいやだ、18才になったら免許をとって商売をするんだ』って、そんなことばかり考えていましたね」。
大学入学を機にはじめた野菜の卸業は、借金地獄という悲しい結果に終わる。心機一転、商売を辞め、日本へ留学。それまで農業しか知らなかったエガシラさんにとって、日本での生活はビジネスに対する意識を変え、商売人としての才能を養う大きな転機となった。
レンタルビデオ・ショップの経営、ヒーロー・アクションなど特撮番組のプロデューサー、おもちゃ工場、電話関係、畜産農家......。数多く手がけたビジネスの中でもエガシラさんの名を一躍有名にしたのは、チェンジマンやフラッシュマンといった日本のヒーローアクション番組をブラジルで広めたことだ。
2年間の留学生活を終え、まずはじめたのがレンタルビデオショップ『ゴールデン・フォックス・ビデオ』。日本から持ち帰ったヒーローアクション番組は、瞬く間にブラジル中の子供たちを魅了した。
「こういうフィルムや番組をテレビで流したら面白いんじゃないかと思って、当時東映の代理をしていた『シネニテロイ』という映画館に話しに行ったんですよ。そこの代理の人は、『ブラジルでそういう番組は受けないと思うけど、あなたがいいと思うなら日本に言って話してきなさい』って。それで東京の東映に話しに行ったらすぐに受け入れてくれた。チェンジマンやジャスピオン、その他にもいくつかアニメ番組のビデオ権を買って、それをこっちで出したらすごく当たったんです。それでテレビ番組の放映権も買って流したら爆発的に大ヒットして。グッズは生産が追いつかないほど売れて、自分でもおもちゃ工場を作って4年くらいやりました。あの頃は日本のメーカーもブラジルのマーケットなんて意識してなかったから『勝手にどうぞ!』って感じだったんですよ」。
次々と特撮関連のビジネスを展開していく中で、日本で見たアクション・ヒーローのライブ・ショーをやってみようと思い立つ。それまでブラジルには存在しなかったライブ・ショーには大勢のブラジル人が詰めかけ、警察が出動するほどの大騒ぎになった。几帳面に整理された当時のアルバムには、自らヒーローに扮したエガシラさんの姿もあった。
「サーカスみたいに、トラック12台くらいを引っ張っていって。ベロオリゾンチでショーをやったときなんか、2万人も入る体育館が超満員! 街中が大混雑になってしまってね。一度、アクションをやってくれる俳優が来なくて僕がかわりに出たこともあるんですよ。オートバイに乗って子供のところまで行くんだけど、仮面をかぶってるから前も見えにくいし、ブラジルは暑いから1回のショーが終わる頃には汗びっしょりですよ」。
しかし、'93年になる頃には主婦向けの料理番組が主流となり、子供向けの番組の需要が減っていく。「特撮の仕事では儲からない」。そう判断したエガシラさんは、すぐさま電話関係の事業をはじめ、そこで稼いだお金で農場を買い牧畜をはじめた。現在は、サンパウロから500キロ離れたパラグアス・パウリスタでダチョウ生産業を営んでいる。
「テレビとかおもちゃ工場とか、がめつく色々やってきたから、気持ち的に動物でもやって、のんびりしたくなってね。今でも、特撮時代のファンの方が『またフィルムやりましょうよ』って声をかけてくれるけど、今のスピードにはもうついていけない。あの時代だったから素人の僕でも成功できたんです。有名になれたけど、やっぱり儲からないと意味がないですから。もう戻ることはないですね」。
〈失敗を恐れずに、前へ前へと進んで行くポジティブなパワーこそが、ブラジルにいる日系人の特徴だ〉と聞いたことがあるが、エガシラさんはまさにそんな人物だった。そして日系人が異国ブラジルでビジネスをはじめだした頃には、エガシラさんのような人がたくさん存在したに違いない。アメリカンドリームならぬ、ブラジリアンドリームの精神を体現して生き抜いた日系人世代だ。
僕はこうした人生を歩んできた人間に強い憧れがある。
〈失敗を恐れずに、前へ、前へ。〉
ダチョウにまたがって草原を駆け抜けるエガシラさんを想像した。